昭和48年5月25日朝の御理解
御理解五八節
『人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立て
てはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、
もらいに行かねば乞食きゃなし。神がよくみみておる。しっ
かり信心の帯をせよ。』
「しっかり信心の帯が出来ておるときの信心というのは、どういう状態のことを云うのであろうか。」と云う事を聞いて頂きたいと思います。
私どもの信心をお育て頂く過程においてさまざまな時がある。もう御縋りするより他にないという時がありましょう、もう本当に神様に御縋りする他にない もう切実におすがりする。
頼りにならない物を頼りにしたって仕方が無いことが分かる、そこで神様に一心に御縋りをする、御縋りするより他に道なしという時に自ずと心の中に思われるものは「どんな修行でもいたします」ということですね、もう御縋りするより他になし、神様どんな修行でもいたします、どうぞこのことを聞き届けてください、御祈念成就のおかげを頂かせて下さい」というて願う時にはね、もしそれが伴わなかったら、私は「しっかり信心の帯をしているとは云えない、神様の外に御縋りする方はございませんからどうぞお願いいたします、」というだけではつまらん。
御縋りする時にはこのためならどんな修行でも厭(いと)いません、させてもらいますと云う時が信心の帯をしっかりしているときだと思うんですね。
まただんだん信心を進めていっていると、もうお詫びを申し上げるより他に無しと言う時がありましょう。
それを今日のきつい言葉ですけれども、例えば泥棒と云われたり乞食だといわれたりということは、言うならばギリギリの悪口、ゆわゆる悪口雑言でしょうね。悪口雑言を云われる場合、私はやっぱりそういうときには、本気で自分自身を見極めるほか無いと思っています。
なるほど、いわれる通りに私の心の中には泥棒根性があるんだ、貧乏根性があるんだといったものを見極めた時です、もうお詫びをする他手なし道なしである。
神様相済みません、日頃このように御教えを頂いておかげをいただいているにも拘わらず、相済まない心汚い心というものをギリギリ見極めさせて頂いてお詫びする他手がない、お詫びに徹するとはそういうことだ。
お詫びする他手なし、だから、どうもすませんでしたばっかり云っとんじゃなく、もう本気でお詫びする他なし、もうこれから決して悪い事はいたしません、例えていうならですよ、悪口雑言といわれる時、本当にきついつらい思いをする時、それを自分の心の中にみる、例えば親鸞聖人さまが本当に大悪人だと自分を悟られたようなものなんです。
自分のような者はとても極楽に行く道なんか開けるはずがない、それは自分をギリギリの処まで極めて行く時に、悪口を実は確かそういうことをした、赤面弁慶になることじゃない、自分の心というものを本気で教えの鏡というものに照らし出してみた時に本気で相済まない私であるということに違いないのです、そこからね、お詫びに徹する、お詫びするより手がないという時があるでしょう。
また改まなければなりません。それは自分と云う者が分かる、分かれば分かるほど、現われてくる事柄とか、頂いているおかげというものは、それでも過分だとなるのです。分に過ぎたおかげを頂いているということになるのです。
自分というものをギリギリ極めた所から私はお詫びを申し上げる他はないとお詫びに徹する、そしてです、本気で改まらせて頂きますという願いがなされた時私は始めて信心の帯をしている時ではなかろうかと思う。
しっかり信心の帯をせよという時にはね、過去においてきた過ち、過去において行うてきたお粗末ご無礼、思い違い考え違い、もう自分はこれでいいように思うていた思い上がり、そういうようなことを私は本気でお詫びを申し上げる時です。
そういう過去のさまざまな忌まわしい自分の中の心の中の状態を改めさして頂きますからと言う所にならなければ、お詫びの値打はないと思うのです。
只、すいませんすいません」、もう一度もしませんからどうぞお許し下さい」というのがお詫び何です。
「しっかり信心の帯をせよ」ということはそういうことじゃないでしょうか。お礼とお詫びばかり言よります金光様の信者の中にはそういう程度の表現をする人が沢山有ります。なるほどしょなさらんことはないけれども、只、口でお礼とかお詫びをいうてるだけのこと、それではしっかり信心の帯をしていると言えんですね。
思えば思うほど頂いているおかげにですビックリする程しの感動が湧いてきて、「もう本当にお礼を申し上げるほかございませんですね」とこれなんです、信心の帯がしっかりできている時なんです。
お礼を申し上げる他に出ない、もう他にない、もうお礼を申し上げるほかない、その喜び感動が、日々お互いがいただいている仕事の上に現れてくる、御用の上に現れてくる。それこそ手の前足の前をする程しの、言わば、信心の喜びが次の活動に移っておる時私は始めて信心の帯をしている時じゃないかと思うのです。
「ほんのことありがたいと思うとります」というて寝たるこうだいしとってから、こんなもんじゃないです、本当に思え思うほどお礼を申し上げる他ないという心が下からこう湧いてくる心の底から湧いてくる。
それが一つの活動の基、ゆわゆる、働かせて頂く原動力ともならせて頂くようなおかげを頂いた時こそ、私は本当の意味においての「しっかり信心の帯が出来ている時」だと思うのです。
そういう私どもはお礼にお詫びに願いに心血を注がせて頂くそれが神様と私どもとの上に交流してくるものをそこから感じます。
してみると私どもの信心を振り返ってみるとこれは「お礼が足りんなあ」と思うですね、「お詫びが足りないなあ」と思うですね。本当に「お礼」と口だけで云よるばってん、お礼がたりないなーと思うです、いわば、信心の帯がゆるでるなということを痛感せずにはおられません。
信心の帯をしっかりさしてもらう、そういうお礼に徹しお詫びに、または願いに徹する以外に無いという信心が日夜繰り換えされていくうちに信心は育っていくのだと、本当の意味での信心が育って行くんだ。
昨日秋山さんのお宅の謝恩祭でした、御霊様の式年の御霊に当たる人が何人もございましたから、合わせて御霊様の慰霊のお祭りもさせて頂いた。
私あんなこと始めてでしたが、お祭りが終わって御霊様の前に出らして頂いたら、丁度なんか胸を突かれて後にひっくり返る時のような状態で御霊様の方に足がポーンとでるようなひっくりかえ方であった、おかしあいすまんの気持ちでいっぱいでしたけれども、そのことをお詫びさして頂いておりましたら「二階一家が神の機感にかなわん」と頂いた。 宅祭りと御霊様のお祭りを一緒にしよる、仏教で言うならご法事と神様の一年に一回の謝恩のお祭りを一緒にしよる。二階一家が神の機感にかなわん、神様のものだから少しはかげる、二階一家だから。御霊様のほうもかげるわけ、もうそのことをまた改めてお詫びをさしていただいておかげを頂きましたが。
昨日の私の御理解「頭を下げる事を忘れる」ということは、一年一回ぐらいの神恩報謝の謝恩のみ祭りをいただく時が本当に頭が下がった時だと思いますね。
お互いに一年に一回ぐらいは謝恩のお祭りが出来るようなおかげを皆さん頂かないといけませんよ。それが本当の頭が下がった時と思います。
そういう大事なお祭りを仕えているのに、ついでに御霊様の何十年式年に当っとりますからついでにお願いしますといったようなもんなんです。
例えばぼた餅一つでも、それこそ、甘な辛な一つでも、「甘いものがお好きであった辛いものがお好きであったから」と御霊様のそのために例えば御用さしてもらうといったようなものがお茶請にあそこはいつもぼた餅が出きるんです、皆さんに味をぼた餅、それを残りを御霊さんに御供えしとる感じで、いうならば。
信心さして頂く者はなにごといも本気にならなければならない。なにごともこれが本当と思える事をやってのけなければいけない。
二階一家のような実意の伴はないことであってはいけない、と皆さんに聞いて頂いてたことでございますけれども、信心の帯がしっかりできている時にはそこに気が付くです。 とにかく今日神様に神恩報謝のもうそれだけに凝り固まるという程しの、例えば信心がで来ている時私は「信心の帯がしっかり出来ている時」ではなかろうかと思います。
金光様の後信心は生きた神様のそれなんですから、いい加減の事ではいかんのです。だから信心が成長する。
昨日私は天地書附の「おかげは和賀心にあり」というのが和らぎ賀ぶ心が去年と同じ和らぎ賀ぶ心だったらその時は和らぎ賀ぶ心であっても一年後の状態が同じだったらもうすでに『和らぎ賀ぶ心ではない』という意味のことを頂いた。
育っていかなければならない お神様に明太の小さな桶がこうお供えしてあったその字を頂くんです、、明太のことを横に書いて御覧なさい日に月に太いと書いてある、「めん」という字は明るいと書いてある、「たい」は太いと書いてある、 「日」に「月」に「太い」 もう一年一年、いゆならば、信心が太っていかなければならない。
まあ例えて一つの例を取りますと、私のことを云うならばわたしは非常に心が小さい、まあいうなら、神経質心が非常に小さい、そして臆病だ。
ところが、ダンダン信心をいよいよさせていただいておるに従ってその小さな心がダンダン大きく太ってきた。なにを見ても何を聞いても心の中にこうやって収めるようになってきた、小さい心が大きくなってきたわけです。。
私は非常に臆病である、けれどもおかげを頂いてダンダン神様の一分一厘間違いのないお働きの中にあることが分かってくれば来るほどに、どんな場合であっても、いうならば驚かんですむというような信心の度胸がついてきた。
世の中には、いうならば、心の大きい人がいる、度胸の座った人がある、これは生まれつき心が大きいとか度胸があるというのは、善し悪しだという意味のことを頂きました。 なんか度胸がある、度胸があったが為に命を失うといったようなことがある。只、生まれつき心が大きいために、なんて申しましょうかね、清さんの言葉を借りると公害をもたらすようなことにもなってくることがあるのです、それが横着になったりする場合が、心が大きいばかり。
心が大きいことも大変素晴らしいことだから、それを信心によって磨きがかけられなければだめ。肝が据(す)わっている、度胸がええと云ってもその度胸が信心によっての度胸でないと価値が無い。
だから神経質でこまくてもいい、度胸ななくてもいいそれが信心の度胸になり、信心のおかげでどのような事でも自分の心一つにに泳がせておけれる程の大海のような心の状態を信心によって頂くということがです、「明太」であるということです。
日に月に心が、いうなら、太って行く、心が太るということだけではなくて一時が万事に育って行かなければならないという事なんです。
そういう育っていく内容というものを今日聞いて頂いたんです。どのような信心をしておればそれダンダン太っていくかということなんです、自分自身の信心を振り返ってみて私のことを聞いていただいたもんです。
私が詫びに徹する時はもう絶対条件があります。「ここを改めますからお許し下さい」です。お礼を申し上げる時にはその神恩報謝の有り難いと言う心が何かの形によって現されます。
「神様どうでも、この事だけはお聞き届け下さい」と祈るときには、私は修行は厭(いと)いません、そのかわり「私は修行いたしますから」というものがある、という時に信心の帯というのがしっかりしている時ではないか、しっかりしている信心生活からしか本当の意味においての和賀心は生まれてこないと思うです。
これならば必ず去年よりも今年という和賀心が太く大きく育っておると思うです。去年の和賀心も今年の和賀心も同じような状態ではおかげがあると仰るおかげではない、やはり、成長していなければ出来ない。それを今日は「信心の帯をしっかりしておかなければ育たない」ということを聞いていただきました。 どうぞ
入力 ひろさき